yohnishi’s blog continued

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『統計学を哲学する』大塚淳著 (名古屋大学出版会) より興味深かった点

相関係数を考えたカール・ピアソンの科学に対する考え方

 「因果性という概念も、『神』や『原子』同様、観測されえないものとして、データに基づく実証主義的な科学からは排斥されなければならない。これはよく言われるような『相関から因果は結論できない』というような主張ではないことに注意されたい。むしろピアソンの主張はより強く、そもそも因果なるものは科学にとって無用の長物なので、我々はそれについて思いをめぐらす必要は全くない、ということだ」(p. 18)

 科学の目的は因果関係の解明にあるということはよくいわれるし、 (例えば、高根正昭の『想像の方法学』(1979) など) 大塚氏も指摘しているように、相関から因果は簡単に結論づけられないから、ちゃんとエラボレーションしなさい、ということもよく言われるが、ピアソンはそもそも科学に因果性なんて必要ないとまで考えていたことは知らなかった。記述統計以上の因果的想定は形而上学的な混乱を招くだけだと考えていたとは...

 逆に相関関係だけでいいんだ、と開き直ったとき、それでもそこそこ実用上問題がないのかどうか...

 「実証主義は、極端なデータ一元論である。すなわち、科学において「ある」と認められるのは客観的な仕方で計測されたデータとそこから導かれる概念だけであり、それ以外のものは人間の作り出した人工物(アーティファクト)に過ぎないという考え方である。... (中略) ... こうした考え方自体は、我々の知識はすべて経験に由来しなければならないとする経験主義の見方を踏襲したものである」(pp.18-19)

「ピアソンは自らの科学的方法論を、いみじくも『科学の文法』と名付け出版した。それはマッハが先導したデータ一元的な存在論に対し、それを科学的に記述し表現するための文法を与えるのは記述統計の枠組みにほかならないという、彼のマニュフェストなのである」(p. 19)

 これは、そもそも実証主義とは、機体の熱や圧力などの現象を、原子論で説明しようとするのを、それ自体観測できないような原子論 (ボルツマンが提唱) といった概念で説明しようとするのを排斥しようというものであって、その急先鋒が実証主義の親玉であったエルンスト・マッハだったといことである(pp. 16-7)。つまりマッハにとっては原子論も「神」や「霊魂」といった概念と変わりがないのであって、そのような観測できない仮定に基づくのではなく観察されたデータのみに基づき、それを法則として分かりやすく整合的にまとめる「思考の経済」こそが科学の唯一の目的だと考えていたという(p. 17)。

 ただ、これはのちに原子や量子の存在が確かめられたことを考えると、極端な実証主義は、演繹的思考や新たな科学的洞察を否定することにつながりかねない。となると、(観察不可能な) 科学的概念と非科学的概念をどう区分すべきなのか...

 これは、預言者による非科学的地震予知と、科学者による科学的地震予測 をどう区別するのかというあたりとつながるような気がする。