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佐藤優が考えていたキリスト教の課題

 佐藤優,2015[2013],『同志社大学神学部 - 私は如何に学び、考え、議論したか』,光文社新書 を読んでみた。この当時の文科系の大学のあり方が描かれていて、文科系大学不要論への反論にもなっているのであるが、一方で今日の大学はこの当時の大学とずいぶんかけ離れてしまったなとの思いを改めて強くした。

 ところで、この中で描かれている、佐藤優が考えるキリスト教の課題 (現代世俗社会におけるキリスト教の意味や役割) とは何だったのか、を考えてみたい。

 佐藤にとっての神とは、人間を超える超越的な力をのことを指す。もちろん、その超越的な力にどのような形式を割り当てるかに当たって、彼の幼少時のキリスト教体験があることは言うまでもない。

 佐藤は本書の最初の方でキリスト教は反知性的であると述べる(19)。なぜならば人間の知的営為を信頼した学問を拒否しているからだという。ただここでキリスト教を「反知性的」と言うのは、近年の反知性主義の流行を考えるとちょっと疑問である。なぜならば、彼のキリスト教を探求する神学部生活が何よりも知性をフル動員した学究生活であるからである。しかし「反知性主義」とは一般には、知的に考えること、あるいは論理性を否定し、思考停止を導き、粗雑な論理のまま、あるいは論理的破綻を無視して、感情を煽ることであるからである。

 彼が文科系虚学である神学を擁護する大きな理由の一つはその論理の汎用性であることは明らかである。また、彼が嫌い、強く批判するのは思考停止である。その意味では、キリスト教は佐藤の言うような「反知性主義」というよりは「反理性主義」と言うべきであろう。

 彼はなぜ近代科学主義に帰依せずにキリスト教に帰依するのか。それは近代科学の根本にある実証主義は理性を前提としているからである。しかし、人間は理性だけで理解できる訳ではない。理性だけではなく身体、感情、意思を持つ存在であり、理性だけを突出して考えるのは間違いだとする (164-5)。

 このあたりは、マックス・ウェーバーが合理性(功利性)だけではなく、価値合理性というものを考えたのも、この問題意識に答えようとしたからだと考えることができるし、また最近の行動科学(あるいはそれに基づいた経済学、社会学等)では、非合理な感情などの要素を入れようという動きは出てきている。ただ、おそらく佐藤に言わせればそれだけでは不十分ということになるのだろう。

 そして、イエス・キリストの実在が仮に学問(聖書学)的に否定されても信仰に影響しない。というのは、イエス・キリストの史実性が証明されないということが、神のどのようない意志を反映しているのかと考えるためである (59)。

 ただし、科学の発展により天上世界が否定されたとき、キリスト教はフリードリヒ・シュライエルマッハー (1768-1834) により、宗教の本質は、思惟でも行為でもなく、直感と感情であるとされ、神を天上から心の中に移した。これにより近代科学との共存可能性が担保されたが、そのため神と人間の心理作用の境界線があいまいになるという副作用もたらした(109)。

 彼はキリスト教の中でもプロテスタント、長老派の信者である。ところで、カトリックの違いとプロテスタントの違いは、カトリックがドグマ (単一の教義) を信じるのに対し、プロテスタントはドグマを否定し複数の教義 (ドグメン) を認めるところにある (134)。そういう意味ではプロテスタントの方が多様性を認めるようだが、現実は必ずしもそうではない。むしろカトリックの方が多様である側面を有するというパラドックスが存在する。

 その理由はカトリックの自然観 (神の意志を自然から読み取ろうとする自然神学) とカトリックの組織 (共同体 / コミュニティ) の強さにある。このため「解放の神学」のような多様性を持ちうるのである (140)。またこれが、プロテスタントはナチになびいたが、カトリックがナチに抵抗できた根拠となった(194)。

 もちろん、ドグマを信じるカトリックは、ヨハネ・パウロ2世のように、政治的に統制を強めようとする動きも生みかねない。また、「ありのままの自然」の尊重も、道を誤れば思考停止に至る可能性がある。なぜならば、「ありのまま」の「自然」も、所詮人間によって解釈された「自然」たらざるを得ず、本当の(神の意図した)自然であるとは限らないからである。

 その一方、現代のプロテスタントはバルト神学の影響で自然を軽視する傾向にある。またバルト自身、一応は多様な教義を認めはするものの、本当は自分の教義の方が優れているのだが、他の者達の考えも許容してやる、というような傲慢さを持っている(140, 134)。

 近代の特徴は理性に基づいて自然を支配できるという人間中心主義であるが、そこでは神の姿が、人間自らの願望や欲望を投影させることにより、神という名の偶像に転落した(=思考停止)。その危険性に対してマルクスとバルトは気付いていた(308)が、彼らの追随者は、教義の体系化、体系の美しさを追求するあまり、同様に、体系化による思考停止に陥ってしまった。

 全く別の立場から、同様に、体系知の閉塞性を指摘したのが浅田彰(『構造と力』)であった(308)。

 この佐藤の指摘する体系知の閉塞性、思考停止の問題点を、例えを以って分りやすく説明すれば、おそらく想定外の事態に無力な原子力技術のようなものであろう。人間の知性・理性をフル動員できれば、必ずや原子力を人間の力で統御できるはず、という前提のもとに原子力技術は組み立てられ、体系化された。そして人間の力で統御できない領域はないはずという信念は、人間の力で統御できない領域は存在しないとみなし、無視するという思考停止を招いた。その結果が福島原発事故であったのだ。福島原発事故以前、数百年ごとに発生する大地震の可能性を指摘されながらも、東電が無視したのは (時に、耳の痛い指摘に対しては、反原発の人の言うことだから取り上げる価値もない、という態度を以って)、まさにこのような思考停止であった。

 そこで人間を思考停止から救うために必要なものは、人間の知性、理性をいくら動員しても、人間が認識不可能な (神の) 領域が存在しうるという謙虚な態度を取ることだ、ということがおそらく佐藤が言いたいことなのではないか。それこそが人間を越えた超越的な力を信じる、ということであるのだ。

 また、「自然の尊重」とは、人間の体系知で認知・理解しえない領域、「美しい」体系知外の、言わば「カオス」の領域である自然を謙虚に尊重する態度でなければならない。

 佐藤優チェコ神学者、フロマートカに惹かれるのも、おそらくは、そこではキリスト教が、社会主義社会、無神論社会との緊張を強いられたが故に、完全無欠の体系化とそれに伴う思考停止から逃れて、この世界を救済する方途を考える契機を提供するからだと思われる (制約された自由こそ「最も」自由というパラドックス)。

 結局佐藤優の主張は次の二点に集約されることになる。

・人間を超える超越的な力を信じよ

・人間の体系知を物神化することによる思考停止から逃れよ

 これこそが佐藤優にとってのキリスト教を信じることの意味であると思われる。とは言え、キリスト教を信じたとしても、そのドグマへの盲目的な信仰はやはり思考停止に至る可能性を指摘せざるを得まい。そこで最もラディカルな姿勢は、信仰体系自体、所詮人間が生み出したものであり、神そのものではないということになるのだろう。