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フッサール『デカルト的省察』第5省察読解メモ

フッサールの他者認識、共同主観的世界認識の構成
 フッサールの認識論ではどのようにして他者や共同主観的世界認識が可能になると論じているのであろうか。フッサール現象学的判断停止から出発する、いわばモナドから出発するが、既にその当時からあったフッサールに対する批判として、それは所詮独我論ではないか、というものがあった。

 フッサールは、素朴に何か客観的な世界が与えられているという措定を批判する。そして他者認識や「客観的」世界が成立する源泉として、志向性を置く。志向性とはエゴが世界を操作し、関り合おうとする傾向・動機と考えられる。つまり世界とは、予め「客観的」に与えられているものではなく、自分の操作対象としてエゴが構成していくものと考える。
 ここから敷衍して考えていくと、例えば人間と蝙蝠には志向性の違い (人間は視覚で、蝙蝠は超音波で世の中を知覚する) ので、人間にとっての世界と蝙蝠の世界は異なったものになるはずであり、予め与えられた単一の「真の」世界の存在を想定する意味はないはずである。そうだとすれば、志向性という「機能」に基づいた機能主義的世界観と言うことができるのではないか。
 ただ、こう考えると、視覚障碍者、聴覚障碍者は別々の世界体系に生きていることになる(p. 224)。これについてフッサールは「異常なケースは、それ自身としてまず構成されなければならず、しかもそれは、それ自体で先行する正常なケースに基づいてのみ可能である」と論じている。
 この時、世界がすべて自分の思い通りに構成され、操作しうるとすればそれは独我論になってしまうが、実際にはそうではない。そのためエゴとエゴ以外の存在の区別が発生する。そこに他者やエゴ以外の「客観的」存在が構成される源泉がある。

 フッサールは他者が共現前(アプレゼンタチオン)すると言う(p. 204)。「共現前は、他者が持つもので、原本的(オリジナル)には近づきえないものを与えてくれるが、それは(私固有のものとして与えられた自然の一部である「彼[他者]の」持つ物体が)原本的(オリジナル)に現前すること(プレゼンタチオン)と絡み合っている」と述べているが、これはおそらく、自分の意図通りではない形で他者が私の前に現れる可能性を述べているのではないか。オリジナルに近づきえるとは、自分が考えた通りに現れるという意味なのではないか。
 とは言え、フッサールは次のように続ける。「しかし、この絡み合いの中で、異なる(フレムト)身体物体とそれを支配している異なる自我とは、統一的な超越する経験という仕方で与えられている。経験はすべて、共現前された地平を充足し確認する経験の振興を目指しており、調和的な経験の進行が持つ潜在的に確認可能な綜合を含んでおり、しかも、それを非直感的な予測という形式において含んでいる。他者経験に関して、次のことは明らかである。すなわち、それを充足し確認していく歩みは、あらたな共現前が綜合的かつ調和的に経過することによってのみ生じることができるということ、しかもそれは、これら共現前は絶えずそれに付随しながら変動する固有なものの現前との動機付け連関に、それの存在の有効性を負っている、その仕方によって生じることができるということ、こうしたことである」(p. 205)
 結局、そのような他者が共現前する世界にあっても、事態がある程度予測可能な形で調和的に進んでいくということが考えられている。あまりにも荒唐無稽な異なる(フレムト)他者の身体の変化は、仮象として排除されるからである (pp. 205-6)。つまりフレムトは変容するがゆえに他者として受容されるが、その変容があまりにも逸脱的だと排除されるということのようである(pp. 206-7)。

 なぜオリジナルな領分でない、他者のエゴの認識が可能なのか(p 217-218)。実はこういう問題設定自体が既に論点先取。本来的に知覚されるものとそうでないものという区別が可能という前提が、この論点に導入されているが、そのような前提自体が既に「超越的」自分のエゴ、他者のエゴという設定自体がすでに自分のエゴによって構成されたもの。
「私の原初的なエゴが他なるエゴを構成するのは共現前による統覚を通じてであるが、この統覚はその独自性からして決して現前による充足を要求しないし、またそれを許容しないような統覚だからである(p. 213)」

 さらに、理念的(イデアール)な対象(の構成)とは、体験の超時間的、汎時間的 (抽象的な) 形象の反復パターン(p. 227-8)。これは時間空間的に個体化されたものとしての客観的な実在(リアリテート)と対比される(p. 228)。(クラス / インスタンス)

モナド間の共同性 (第56節) 
 「他者が存在する」ということは、他者が構成されるということ(p. 230)。したがってモナド同士は、いかなる実質的(レエル)な橋渡しも行われない。>「実在的(レアールな)」分離。しかし、存在するもの(モナド)同士が志向的な共同性にある(=お互いにかかわりを持とうとすることにより成立する共同性)(p. 231)。これは一種の創造によって思い浮かべるというような非実在的(イレアール)な共同性ではない。
 つまり志向性が超越論的共同主観性の源泉(p. 233)。

・客観性の限定性 (第58節)
 周囲世界の持つ客観性の制限性、限定性が、世界が文化的世界として与えられること(p. 236)。世界は万人によって近づきえるにもかかわらず。
 様々な世界は自分(中心項)から出発して周辺に広がっていく「方位付けられた」構成を持つ。もっとも普遍的には原初的、一次的に構成されるものと、二次的に構成されるものを前提とする(p. 239)。そして異文化も他者と同じようにフレムトとして近づきえる(p. 240)。
 また、心的生活は、常に周辺環境に対し、完全に組み込まれることはなく、常に違和感を持つ。<人間の持つ有意味性(p. 241)

 現象学的構成、分析がでっち上げでない根拠: 純粋な「直観」の枠内で行われること(p. 268) > 余計な前提をなるべく排していること

 

『統計学を哲学する』大塚淳著 (名古屋大学出版会) より興味深かった点

相関係数を考えたカール・ピアソンの科学に対する考え方

 「因果性という概念も、『神』や『原子』同様、観測されえないものとして、データに基づく実証主義的な科学からは排斥されなければならない。これはよく言われるような『相関から因果は結論できない』というような主張ではないことに注意されたい。むしろピアソンの主張はより強く、そもそも因果なるものは科学にとって無用の長物なので、我々はそれについて思いをめぐらす必要は全くない、ということだ」(p. 18)

 科学の目的は因果関係の解明にあるということはよくいわれるし、 (例えば、高根正昭の『想像の方法学』(1979) など) 大塚氏も指摘しているように、相関から因果は簡単に結論づけられないから、ちゃんとエラボレーションしなさい、ということもよく言われるが、ピアソンはそもそも科学に因果性なんて必要ないとまで考えていたことは知らなかった。記述統計以上の因果的想定は形而上学的な混乱を招くだけだと考えていたとは...

 逆に相関関係だけでいいんだ、と開き直ったとき、それでもそこそこ実用上問題がないのかどうか...

 「実証主義は、極端なデータ一元論である。すなわち、科学において「ある」と認められるのは客観的な仕方で計測されたデータとそこから導かれる概念だけであり、それ以外のものは人間の作り出した人工物(アーティファクト)に過ぎないという考え方である。... (中略) ... こうした考え方自体は、我々の知識はすべて経験に由来しなければならないとする経験主義の見方を踏襲したものである」(pp.18-19)

「ピアソンは自らの科学的方法論を、いみじくも『科学の文法』と名付け出版した。それはマッハが先導したデータ一元的な存在論に対し、それを科学的に記述し表現するための文法を与えるのは記述統計の枠組みにほかならないという、彼のマニュフェストなのである」(p. 19)

 これは、そもそも実証主義とは、機体の熱や圧力などの現象を、原子論で説明しようとするのを、それ自体観測できないような原子論 (ボルツマンが提唱) といった概念で説明しようとするのを排斥しようというものであって、その急先鋒が実証主義の親玉であったエルンスト・マッハだったといことである(pp. 16-7)。つまりマッハにとっては原子論も「神」や「霊魂」といった概念と変わりがないのであって、そのような観測できない仮定に基づくのではなく観察されたデータのみに基づき、それを法則として分かりやすく整合的にまとめる「思考の経済」こそが科学の唯一の目的だと考えていたという(p. 17)。

 ただ、これはのちに原子や量子の存在が確かめられたことを考えると、極端な実証主義は、演繹的思考や新たな科学的洞察を否定することにつながりかねない。となると、(観察不可能な) 科学的概念と非科学的概念をどう区分すべきなのか...

 これは、預言者による非科学的地震予知と、科学者による科学的地震予測 をどう区別するのかというあたりとつながるような気がする。

 

安倍元首相暗殺

 日本の戦前は、首相や政界の重鎮が暗殺される事件が頻繁に起こっていたが、戦後は、今回のような国政レベルの政治的重鎮が暗殺される事件が起こったのは、1960年に起こった浅沼稲次郎社会党党首暗殺事件以来の事件ではないだろうか。

 ただ、政治的理由で安倍首相を暗殺する理由が思いつかない。選挙のさなかの今回の安倍元首相の暗殺はむしろ与党に同情票の形で有利に動くだろう。安倍首相の政治姿勢に対する反対勢力が暗殺する理由になるとは思えない。今回の事態で最も有利な立場に立つのは岸田首相であろう。おそらく、参院選では自民党の勝利にプラス効果になるとともに、安倍元首相はアベノミクスからの脱却に強く反対していたと伝えられているので、今回の事態によって、岸田首相は大きな政治的フリーハンドを獲得したと言える。もっとも岸田首相が今回の好機を政治的に利用できるかどうかはわからないが...

オミクロン株で入国禁止

 岸田首相がコロナウィルス オミクロン株拡大で、速攻で外国人入国禁止を打ち出した。今までの日本政府にない異例の素早い対応である。昨年、アジアからの入国禁止は早かったが欧米からの入国はザル状態でそこからコロナが拡大したなどと批判されていたが、その批判を意識したか、非常に素早い対応となった。

 ただ何となく、裏には電通のおそらくツイッターなどを分析する部隊がいて、そちらから進言が行ったのではないかという気がするのだが...

やはり新型コロナの主感染源は通勤ラッシュではないのか?

 今朝のNHKニュースのおはビズを見ていたら、テレワークを実施している企業の大半が、緊急事態宣言解除後もテレワークを継続していると報道された。

 先日、新型コロナの主感染源は通勤ラッシュの車内や職場ではないか、と書いたが、その推論を裏付ける報道だと思う。通勤ラッシュでは意外に感染しない、などという情報が流れたこともあったが、常識的に考えて、三密の極である通勤ラッシュの車内で感染が広がらないと考える根拠が見当たらない。そう思われるとしたら、通勤ラッシュでの感染は、単に経路追跡できないという理由しかないと思う。

 そして飲食店が主感染源だとしたら、宣言が解除された10月中旬以降、陽性者が増えて当然のはずだがそれもない。しかし、通勤ラッシュやオフィスでの感染が主要因だとすると、テレワークの継続が、感染者の再急増を招いていない原因と考えるのが、妥当な判断である。おそらく飲食店での会食は、感染の増幅要因になってはいるだろうが、主要因ではないと考えるべきだろう。

 テレワークの実施は、テレワークが出来ない人にも、感染を減らすという意味でメリットがある。そして何より通勤ラッシュの緩和が、すべての通勤者にとって大きなメリットになる。

コロナが急に減ったのが気持ち悪い

 ここのところ、コロナ感染者が急に減っていて気持ち悪い。もちろん減っていることは良いことであるが、なぜ減ったのか全く原因分析ができていないのは非常にまずいのではないだろうか。減った理由が分からないなら、増える理由も分からない、ということではないか。コロナ120日周期説などと言うものも飛び出している1)が、これは原因が分からないと言っているようなものである。

 理由が分からずに減れば、もうコロナは完全に終わったような気になってしまう。だがそれではまずいのではないだろうか。

 一つ考えられるには、やはり通勤電車のラッシュの混雑状況の影響は無視できないのではないか、ということである。7月12日に緊急事態宣言が出され、居酒屋などの飲食店の営業への規制が強化された。しかし、その2週間後の7月末には減るどころかうなぎ上りに増えるばかり。ただこのころ報道された内容としては、前回の緊急事態宣言解除でリモートワークもやめた企業が、7月の緊急事態宣言でもリモートワークにあまり戻らなかった、ということが言われた。その後オリンピックに突入し、さらに中等症患者の事実上、切り捨て宣言が8/2に菅首相によって出された頃から、小池都知事が、企業に対して、リモートワークに戻るよう、強く呼びかけるようになった。新規陽性者数が減り始めたのは、8/24以降の週からであったということは、その2週間前、8/10頃から、感染が減少に転じたということである。オリンピックの閉会式が8/8で、オリンピックが終わったから人出が減ったとも考えられるが、第5波突入後リモートワークに戻ることに乗り気でなかった企業が、さすがに患者の急増を見て、しぶしぶリモートワークに戻ったのがこのころであったとも考えられる。

 また、東京に隣接する山梨県で比較的陽性者の発生が少ないという点も、通勤ラッシュの陽性者発生への影響を傍証するものではないかと考える。東京に隣接する神奈川、千葉、埼玉はかなり陽性者発生数が多いにもかかわらず、山梨では発生が少なかった。山梨県では飲食店に対する山梨モデルが功を奏したと考えているようだが、私は、自動車通勤の比重が大きく、朝のラッシュ時間帯でも比較的電車やバス内に余裕があるという点も見逃せないのではないかと思う。

 しかし、ラッシュの混雑と夜間の人出は相関が高くなりがちである。また、ラッシュの混雑状況は、個々の個人がコントロールできるものではない一方、夜の飲食店に出かけるかどうかは、個々の個人がコントロール可能な行動である。各個人が自分の意思でコントロールできない状況が主原因だと明らかになると、社会的パニックになりかねない。この結果、居酒屋などの夜間を主営業とする飲食店にすべての責任が転嫁されてしまったのではないだろうか。

 とはいえ、実際の各鉄道の毎日の混雑状況データや企業のリモートワークの日ごとの実施率が公表されるわけでもないので、この仮説は検証できない。また政府はこのような仮説を検証させる気もないであろう。

1) これについては以下の記事を参照。

「第5波の感染急減、東大が試算 さまざまな仮説検証 新型コロナ」2021/11/10 朝日新聞

https://digital.asahi.com/articles/DA3S15107508.html?_requesturl=articles%2FDA3S15107508.html