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アダム・スミス『道徳感情論』を読む (2)

道徳感情論』 第三部「義務感について」

 アダム・スミスは、共感と非共感の応酬 (そして人々から共感を得たいという個々人の欲望) によって一般規則たる道徳が成立 [=マルクスの用語を借りれば、物象化] するとし、その道徳が神格性を獲得して [= 同じく、道徳律の物神崇拝の成立] 人間の行為 (特に利己的激情) を外在的に抑制するとした。そしてこの道徳律の物象化、物神崇拝に伴う服従意識を「義務感」とした。また、道徳律の物神化が成立すると、個々の利己的激情に身を任せるよりも、「義務感」に従うものがより人間性として「上品」と見做されるとした。

 さらに、このような物象化、物神崇拝を、アダム・スミスは、我々が社会を維持していくための自然な本性とみていた。

 その一方で、このような道徳律の物象化、物神崇拝が成立したとしても、人間の自然な感情として、常にその道徳律の範囲に収まるのではなく、収まり切れない場合もあるとし、道徳律に収まらない激情に駆られた行為であっても、人々から共感を得られる場合 (例えば復讐) の指摘や、「誤った」義務感 (例えば異教徒の道徳律) に従った結果、「誤った」結果をなした場合への、その行為者の「義務感」への服従に対する人々の尊敬感などを指摘した。

 このように、アダム・スミスは、個々の行為に対する人々の共感、非共感の基準の曖昧さ、振幅の激しさを指摘しつつも、それが道徳律の物象化というフィルターを通ってどのように社会の安定化に役立っているかを論じるとともに、この物象化、物神崇拝を社会の安定的維持に不可欠な社会化過程として認識していた。

 その一方で人間の心情はこの社会化の枠に完全には収まり切れず、言うならば社会変動のタネ火として残りうることも認識していた。

 最後にアダム・スミスの神概念であるが、おそらく理論的には2つの水準 (意味) で使っていると思う。一つは物象化した一般規則たる道徳律の物神崇拝としての神。もう一つは自然の摂理 (Nature) としての神。この後者は以前にも触れたようにスピノザ的な意味での神であろう。このような道徳律の物象化、物神崇拝化を、スミスは、社会維持のための自然の摂理として捉えていたが、後者はその意味である。

 なお、面白いエピソードとして、文学者は派閥を作って争いがちだが、自然科学者(特に数学者)は派閥を作って争うようなことは少なく、謙虚であるとアダム・スミス述べている。これは数学者、自然科学者は自分の業績の価値がはっきり分かりやすいので、時に他人の称賛を得られなくても、自分の業績に自信が持てるのに対し、業績の価値が(客観的に)はっきりしにくい文学のような領域では他人の称賛が重要なので、他人の称賛や共感を得ようとして、派閥などを作って争いがちなのだという。