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フーコー『言葉と物』の日本語訳をめぐって(2)

(前回より続く)

さらに、こちら

『言葉と物』渡辺、佐々木訳 P83上

「古典主義時代のはじまろうとするところで、記号は世界の一形象であることをやめ、それが標識として示しているものに、類似もしくは類縁関係の強固な秘密の紐帯でつながれたものではなくなるのだ」

これは実は全く文法的には問題ない (そりゃ、そうだ。仏文学の大権威が訳しているのだから)。ただ、この訳文から言っている内容がピンとくるだろうか?

では原文は...

"Les mots et les choses" p. 72

Au seuil de âge classique, le signe cesse d’être une figure du monde; et il cesse d’être lié à ce qu’il marque par le liens solide et secrets de la ressemblance ou de l’affinité.

上の訳文で「一形象」と訳された原語が、"une figure" であることがわかる。ここで初めてピンときた。figure をもちろん形象という訳語を当てても辞書的には問題がない。だが、要は「文字」だったのだ。つまり、ルネサンス以前は記号 (Signe)とは、文字、あるいは具体的に書かれた標識 (figure) だったのが、古典主義時代以降はそうではなくなった、つまり、記号が、具体的に書かれた文字やモノから、分析概念に転じた、ということを言いたいのである。

それで訳者は「形象」という訳語を当てているのであり、確かにそれはそれで正しいのだが、しかし「形象」という訳語では、私の不勉強のせいなのか、どうも何を言いたいのかピンと来ない。

ただ、原文を見て初めてフーコーのここでの基本コンセプトがわかって、訳文を読んでもよくわからなかった内容が理解できるようになった。

『言葉と物』渡辺、佐々木訳 P103上

「いずれにしても、言語(ランガージュ)が表象にたいしてまったく透明になったため、言語(ランガージュ)の存在(エートル)は問題とならなくなる。ルネッサンス時代は、言語(ランガージュ)がそこにあるという生のままの事実のまえで足をとめた。世界の厚みのなかに、物と混りあいあるいは物のしたを走る文字記号(グラフィズム)があり、手書きの稿本や書物のぺージのうえには、さまざまな頭文字符号(シーグル)がおかれていた。そして、それらすべての執助な標識は、みずからのうちにまどろんでいる言語(ランガージュ)を語らしめ、ついに目覚めさせるため、二次的言語(ランガージュ)-注釈、釈義、博識のそれ-を呼びよせるのだった。言語(ランガージュ)の存在(エートル)が、そのなかに読みとれるものやそれを鳴り響かせる言葉(パロール)に、いわば無言のままかたくなに先行していたのである」

これも、最初訳文だけ読んで何を言っているのかさっぱりわからなかった部分である。

やはり原文を見てみよう。

"Les mots et les choses" P. 93

Il est en tout cas devenu si transparent à la représentation que son être cesse de faire problème. La Renaissance s’arrêait devant le fait brut qu’il y avait du langage : dans l’épaisseur du monde, un graphisme mêlé aux choses ou courant au-dessous d’elles; des sigles déposés sur les manuscrits ou sur les feuillets de livres. Et toutes ces marques insistantes appelaient un langage second – celui du commentaire, de l’ exégèse, de l’érudition -, pour faire parler et rendre enfin mobile le langage qui sommeillait en elles; l’être du langage précédait, comme d’un entêtement muet, ce qu’on pouvait lire en lui et les paroles dont on le faisait résonner.

 一番最初のil は le langage である。もちろん文法的には最初の一文は問題ない。ただ langage に「言語」という訳語が充てられている。実は翻訳の中には langue にも同じ訳語を当てている。で、たぶんそれはまずいということを訳者は自覚して、一貫して、煩雑でも「言語(ランガージュ)」、「言語(ラング)」と訳語を当てているのであろう。だがlangageに充てられた「言語」を、日本語、韓国語、中国語、英語... という時の言語概念だと解釈すると何を言っているのかさっぱりわからない。「言語」というよりは、話される内容のことを指しているように思われる (それに対し langueが「言語」であろう)。むしろ「言葉」と訳したほうが良い。訳書の中で「表象」と訳されているのは la représentation である。le langage が la représentation に対し透明になるとはどういうことか。もちろんこれは、記号が、具体的な文字(表象記号)を意味していたのが、古典主義の時代になって、分析概念の意味に転じたという記述と関連するはずである。記号論的に考えると、la représentationは、signe (記号)が持つ機能、あるいは signifiant (能記、指し示すこと) に相当し、le langage は signifiée (所記、指し示されるもの)、に相当すると思う。そう考えると、le langage が la représentation に対し透明になるとは、分析的には区分されるにせよ、実体的にはle langage = la représentationだと思われるようになった、ということであろう。逆に言えばルネサンス以前は、実体的にsignifiantであるla représentationとsignifiéeであるle langageが一致しないことは当然であると思われていた、ということであろう。だからこそdes siglesが signifiantたるles manuscrits または les feuillets de livresに執拗に付加されるのである(もちろんdes siglesもsignifiantの一種に違いないのだが)。文字や文章だけでは、伝えるべき内容が表象しきれないのが当然と思われていたので (それが langageの先行である)、シーグルが添付されるのが常識だった、と言いたいのだろう。それがさらに、二次的なlangage (解釈によって生まれるメッセージ)を呼び込むのである。

『言葉と物』渡辺、佐々木訳 p. 103下

「ところが古典主義時代以後、言語(ランガージュ)は、表象の内部、表象のなかに空洞を設ける表象それ自体の二重化のうちに展開される。」

「空洞を設ける表象それ自体の二重化」とはなんとも意味不明であるが、

"Les mots et les choses" p. 93

A partir de l’âge classique, le langage se déploie à l’intérieur de la représentation et dans ce dédoublement d’elle-même qui la creuse.

要は、 le langageが展開するのは、表象 la représentation の中、および表象自体が自らに刻む表象自身の二重化の中である、とでもすべきであろう。渡辺、佐々木訳の「表象のなかに空洞を設ける表象それ自体の二重化」という意味不明の訳は、動詞 creuser を「空洞を設ける」と訳したことからきているが、辞書を見ると、creuserには、掘る、うがつ、掘削する、彫る、くぼませる、掘り下げる、深める、(心を)さいなむといった訳語がついている。ここは、表象自体が自身に二重化を刻み付ける、表象が自ら二重化する、程度の意味であろう。で、この二重化 dédoublement とは何か? ルネサンス以前は signeが実体概念だったのが、古典主義時代以降分析概念になったのである。ということは、当然、ルネサンス以前はsignifiant とsignifiéeが実体的に分かれていると思われていたのが、古典主義時代以降その両者が分析概念となり、表象の中にその両者が含まれる (それが二重化) と考えられるようになった、ということであろう。ある表象の中にsignifiant ( les manuscrits等々) とsignifiée (le langage) が実体的に同時に含まれるということは、例えば、ある文章は書かれている通りの意味を持つ、と考えられるようになった、ということだと思う。

仮にこのフーコーの指摘が正しいとすれば、フーコーは、少なくともこれらの章では触れていないものの、この変化というのはおそらく、音読が原則だった文章が、黙読されることが一般的になったという変化に対応するものではないかと考えられる。

(続く)