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『道徳感情論』第7部道徳哲学の大系について

 アダム・スミス道徳感情論、最終部分。ここでアダム・スミスは「徳」の本質は何か、どこから生じるのかという問題を扱う。まずアダム・スミスはこの問題について従来からある三つの議論を紹介する。一つは徳が適合性1)にあるという議論、もう一つは賢明さにあるという議論、最後は、思いやり(benevolence)にあるという議論である。  但し、アダム・スミスはこの三つの議論を結果的にいずれも退ける。適合性に関しては、適合性は徳の本質的要素の一つであることは認めるものの十分条件ではないとして(例えば、適合性は、不徳に対する人々の嫌悪感を説明できない)(pp. 541-2)、賢明さにあるという議論に関しては、エピクロスが「適合性」では説明できない徳の卓越性を説明するロジックとして導入したことは認めるものの(p. 552)、徳や悪徳が他者の感情に対して引き起こす影響について説明できないとして(p. 550)、そして思いやり論に関しては、他者による徳の是認を説明しないとして(p. 560)、いずれも退ける。結局、スミスはこれらのいずれとも異なって、徳を(社会的)効用に帰属させようとする(p. 564)。要は徳を人間の内面に帰属させようとする三議論を不十分なものとするのである。  またマンドヴィルは有徳であるとの栄誉を求めようとする心情を虚栄心だと決めつけて否定するが、スミスは、そのように一概に否定するマンドヴィルの立場に反対する(pp. 570-4)。もちろん、中身が伴わずにして栄誉だけを求めようとする虚栄心はスミスも望ましくないと考えるが、栄誉にふさわしい中身を磨こうとする人間の欲望について、スミスは肯定する。  さらに、このような徳を実現するにあたって大きな力を発揮する是認の原動力について、やはりスミスは従来からの三つの議論、すなわち、自己愛説、理性説、感情説の三つを紹介する。だがやはりスミスはこの三つのいずれも否定する。自己愛説に関しては、間接的な共感から得られる是認を説明していないと指摘する (p. 587)。理性説については、道徳的判断を、不安定な感情ではないものに帰属させる必要があったと認めながらも、やはり正邪の判断の端緒は快/不快の感情にあるのではないかと批判する (pp. 590-1)。また感情説については、ハチスンのような道徳感覚を措定する議論と、単に共感に求める議論を紹介する。だが、結局アダム・スミスは「道徳」というものの源泉を、道徳感覚を人間の五感に並ぶ感覚として措定するハチスンの議論、共感に求める議論や決疑論(casuistry)に求める議論を否定しつつ、人間の内面に求めることに反対している。結局、道徳性を人間の内面に帰属させようとしても、一貫した道徳性などは求めることのできない気まぐれなものであるからである。  結局、スミスは道徳性を、例えば他人に迷惑を掛けない、というような外面的な社会性 (社会的効用) に求めようとしていると言えよう。これは、道徳性に、禁欲を否定し個人の欲望(例えば名誉欲など)を認めていくような態度2)、個人の欲望を問わず、結果的に社会的な厚生の増進に求めていく態度と通底している、ということができる。 1) 適合性とは感情が、それが向けられる対象に釣り合っているかどうかということ。例えば怒るべき事柄に対し、怒らない、腹が立たないのは、感情が少なすぎるし、対して腹を立てるべきことでないことに怒るのは感情が過剰であるので、いずれも徳がない、という議論になる。怒るべきことに怒り、楽しむべきことに楽しみ、悲しむべきことに悲しむことが適合性がある=徳があるという話になる。 2) 但し、スミスは、既に述べたように社会的厚生を増進させない名誉欲、例えば中身が伴わないくせに名誉を求める虚栄欲は否定する。 ※ページ数は高哲夫訳講談社版のページ数。 前回 http://yohnishi.at.webry.info/201609/article_6.html 前々回 http://yohnishi.at.webry.info/201608/article_4.html